ロシア語

誰をどう呼ぶ?「卑称形」

 名前が覚えられないという記事を書いた時に、名前繋がりで思い出したことがある。それは、よくロシア文学の紹介書やロシア語の入門書などを読んでいる時にでてくるたとえ話みたいなもので、「ロシア文学に出てくる登場人物の名前が難しくて読むのを挫折してしまうという人がいる」という話である。

 正直に言うと、私は現実世界で「ロシアの小説を読んでいたんですが、登場人物の名前が複雑すぎて途中で読むのをあきらめました。だって同じ人なのに全然違う呼び方で呼ばれたりするじゃないですか?そもそも、名前に馴染みがないから覚えにくいですし…」というようなセリフを口にする人を見たことがない。ある種の都市伝説みたいなものなんじゃないかと思っている。「登場人物の名前難しすぎて挫折人」みたいな想像上の生き物がいるに違いない。

 そもそも、私は「ロシアの小説を読んでます」という人に出会ったことが殆どないのだ。21世紀に生きる普通の日本人はロシア文学の作品なんて読もうと思わないのであるから当然である。そして、「ロシア文学面白いよね!」と私に話をしてくれる人は、みんななにかしらの作品を読了しているのだ。やっぱり、登場人物の名前にまつわる複雑さが原因でロシアの小説を途中で放棄する人は都市伝説の類なのではないだろうか。

 それはそれとして、ロシア文学を読んでいるとその名前と呼称に関する複雑さというものを感じることはある。そもそも、一人の登場人物が、色々な呼び方で呼ばれるのだから慣れていない読者は大変だ。私が一番最初に読んだロシア文学作品はトルストイの『アンナ・カレーニナ』だったのだが、「キティの名前がエカテリーナってどういうこと?」と、当時高校生だった私は不思議に思ったものである。

 ロシア人の名前は、「名前」「父称」「姓」からできていて、例えば、文豪トルストイであればレフ・ニコラーエヴィッチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой)がフルネームで、レフ(名前)、ニコラーエヴィッチ(父称)、トルストイ(姓)となる。

 父称とは父親の名前をもとにつくられるもので、「誰誰の息子、娘」を意味するものだ。トルストイで説明すると、レフ・ニコラーエヴィッチはニコライの息子のレフということになる。

 さて、ロシア人の名前の構造は、そもそも日本人のそれと異なっているわけである。さらに指小・愛称という形で、一つの名前に対する色々な呼び方があるのだから、やっぱり慣れてない人には大変だ。

 例えば、中澤英彦『はじめてのロシア語』(1991年、講談社)には、Пётрという名前の呼称として、Пётра, Петря, Петруня, Петруся, Петруха, Петруша, Петрай, Петряй, Петрака, Петряка, Петраня, Петряня, Петрята, Петраха, Петряха, Петраша, Петряша, Петя, Пета, Петёха, Петоха, Петёша, Петоша, Петюка, Петюня, Петуня, Петюся, Петуся, Петюха, Петуха, Петюша, Петуша, Петяй, Петяйка, Петана, Петяня, Петяха, Петяша, という38種が挙げられているのだから驚きである。

 これらが時と場合によって、使い分けられるというのだから、ロシア語の名前に関する複雑性というものは、なかなかに興味深いものだ。

 恥ずかしい話なのだが、呼称に関してはなんとなく感覚で生きてきた私。いままで、殆ど注意を払ってこなかったのである。しかし、こんなにも豊潤な世界があると知ってしまったら、否が応でもロシアの作品を読む際には名前に注意を向けざるをえまい。そして、私の無知(というか怠慢だが)をあざ笑うように『はじめてのロシア語』には「卑称形」という言葉がでてきたのである。

 「卑称形」とは、人名の呼称の一種で軽蔑や侮蔑の意味合いを込めたものであるらしい。例えば、Юрий に対するЮркаであったり、Наталья に対してのНатаха、Татьянаに対するТанькаがそれにあたる。私の力及ばず、あまり情報を集めることはできなかったが、帝政期の身分制とも関係がありそうな気もする。(主人が使用人に対して使う呼び方であったりとか…。)

 ただ、この呼び方も、その意味するところは、時と場合、お互いの関係性に寄るようで、例えば仲のいいクラスメイト同士であったりすると、ネガティブなニュアンスは無くなるようだ。ちなみに卑称形は、-к, -х, -ах, -ух, -юх, -ин, -янといった接尾語をつけてつくるのが基本である。

 豊かで多様なニュアンスであふれたロシア人の呼称の世界。ロシア文学をさらに深く楽しむために、もっと奥まで分け入っていこうと、心に決めた日でした。

 

参考文献

www.ruspeach.com – Русский для иностранцев https://www.ruspeach.com/learning/13481/ (2021年9月15日最終閲覧)

中澤英彦『はじめてのロシア語』、1991年、講談社

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