私の正座式集中法(独り言)
労働は疲れる。精神的にも肉体的にも。これに対して、「いや、私は疲れませんよ」という反論をする人はあまりいないはずである。もしもいらっしゃるとしたら、脳の疲労を感じる部位が何かしらの理由で麻痺しているか、そもそも人間ではなくサイボーグであるか、そもそも従事しているものが労働ではないかのどれかであると思う。
最近私は物わかりのいい「大人」になったので、「まぁ、この人間社会において生きるためには労働に従事する必要があるよな」と思えるようになった。しかし、しかしである。一週間に五日間、そして一日最低八時間(通勤やらなんやらを含めると拘束時間は平均十二時間以上だ)も私を始めとした人間を働かせるのはやりすぎではなかろうか。
これは生き方の問題なので人それぞれではあるが、少なくとも私は労働の為に生きているわけではなく、生きるために労働しているのである。確かに、働くというのは自己表現の一種の形態ではある。しかし、それはそれとして、私は働くだけで精神を満足させることができるほど労働神様を信じる豊かな心を持ち合わせていないのである。残念ながら。
私は、本を読みたいし、漫画も読みたいし、アニメも映画も見たいし、そこで感じたことをアウトプットしたいのである。知らない街を歩きたいし、目についたものは調べたい。道に生えてる花の香りを嗅ごうとして蜂に追い回されたいし、発情期の犬が交尾している現場に偶然居合わせたい。街中に貼られた謎のステッカーをスマホのカメラで撮りたいし、古本屋を回りたいし、美術館や博物館もまわりたいのである。
つまり、やりたいことがありすぎる贅沢人間なのだ。
しかし、私が贅沢人間である事実は変えられないため、空いた時間で本を読んだり、それをアウトプットしたり、ロシア語を読んだり、コーヒーを味わったり、作品を描いたり、調べ物をしたりするわけである。そうしないと私の精神が恐るべき速さで摩耗してしまい、泣きながら深夜にカップ麺を大量に消費するカップ麺モンスターみたいなものが誕生してしまう危険性がある。
しかし、この空いた時間にやりたいことをするという行為を続けるのには、やっぱりエネルギーが必要なのである。肉体的にも精神的にも。
というわけで、労働から帰ってきた私は、精神の安寧を保つために、まず読書にとりかかろうとするのであるが、そもそも労働で疲れているため集中できないのだ。襲いかかる睡魔。私は睡魔に対抗する最も有効な手段である「仮眠」という技を発動するのであるが、残念ながら九割の確率でこれは成功しない。気づくと次の日になっており、私は絶望のあまり朝からカップ麺をやけ食いし、酷い胃もたれを抱えながら出社しなければならなくなってしまうのである。しかも胃もたれが酷すぎて午前中の最も集中できる時間の労働効率がめちゃくちゃに下がるため、正直「私、ここにいる必要あるのか?」状態になってしまう。
何が言いたいのかと言うと、「労働」は悪であるということだ。
いや、違う。いや、「労働」が悪であることは確かなのである。けれど私が今日書こうとしていることは、そんなわかりきったことではなく、その悪の行為で疲れ切った身体で、どうやってやりたいことをやるかという私の試行錯誤についてである。
さて、家に帰り、夕飯を食べ、シャワーを浴び、本を読んでいるとやっぱり一日の労働の疲れが襲い掛かってくるのだ。具体的には睡魔という形で。そうなると、全然集中できない。どうにかできないだろうかと色々試したのだが、最近調子のいい方法が正座で本を読むというものである。
正直、「そこまでして本を読みたいか?」、という声が聞こえてきそうであるが、読みたいに決まっている。「読まなきゃやってらんねえんだよ」と私は言いたい。毎晩仕事終わりにアルコールを摂取しないと生きていけない人種が世界には存在しているが、毎日コーヒーと読書を摂取しないと精神が死ぬ人間もこの世界にはいるのである。
というわけで、正座をして読書をしている。
この、正座をするという行為は、なかなかに素晴らしい。第一に猫背気味の私の背中が自然と伸びる。姿勢が悪いと内臓が早く劣化し、この高度に発達した資本主義社会における自動車の寿命よりも早く十二指腸の寿命が来てしまうことになる。ちなみに、十二指腸のメンテナンスと修理には自動車よりも金がかかる。姿勢が良いとそのような絶望を未然に防ぐことができる可能性が上がる。
第二に、これがより重要なのであるが、眠くならずに集中できる。これはただ単に私の気のせいかもしれないが、正座で本を読むと、普通に椅子に座って読書をする時よりも集中できる。しかも、眠くならない。科学的根拠を探したわけではないので、理由は謎である。
日常ではあまりとらない姿勢をとることによって、脳のスイッチ的なモノが切替わるのかもしれない。あるいは、セイザリンのような名前のホルモンが脳から分泌され、集中力が向上しているのかもしれない。とりあえず、気のせいだろうとなんだろうと、正座をすると集中できると思い込んでいる私が正座をして何かをするという習慣を作ることができれば、帰宅後の時間を超がつくほど有効に使えるのではないか。というか、この怪文章も正座して描いているのであるが、すでに労働よりも集中している感がある。 というわけで、この正座式集中法を私はこれから習慣づけていきたい所存である。
ちなみにこの集中法の欠点は何といっても一定時間が過ぎると足がしびれ、心がかき乱されるところである。そして、足のしびれをとるために、とりあえず布団でゴロゴロするわけであるが、そうすると高確率で次の日の朝になってしまうのである。ライフとワークのバランスをとりながら精神の安寧を図る道筋は険しいものなのだ。