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私の反戦宣言

 2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻したと知った時、私はとてもショックを受けた。前々からロシアが国境付近に軍を集結させている情報は得ていたし、最近はロシアとアメリカ間のウクライナを巡る緊張状態がニュースでも目立っていた。しかし、私は心のどこかでロシアは戦争をしかけないだろうと思っていたのだ。

 インターネットから流れてくるウクライナの映像は、そこがロシアと地続きであり、隣国であることを物語っていた。私はウクライナを訪れたことはないが、そこの喧騒や匂いをある程度実感をもって想像することが出来た。街並みや建物、道路の雰囲気がロシアで生活していた時に見たそれと似ていたからである。誤解しないで欲しいのだが、ウクライナとロシアの街並みが同じということを言いたいわけではない。それぞれの場所にはその場所の特色があるだろう。私が言いたいのは、戦火にさらされたウクライナの街並みを私がリアルに感じることができたということだ。

 画面に映る戦火に巻き込まれた街の風景にここまでリアルを感じることはいままでにないことだった。画面の向こう側の戦争は私にとっていつでも想像力の外にあった。今回の戦争は違った。私は心に痛みを覚える程に、画面に映し出される光景にリアルを感じたのである。

 私はなぜ、ロシアがウクライナへ侵攻しないと思っていたのだろうか。私は自分の想像力の貧困を恥じる。私はあまりにも自分が暮らしていた世界に対して無関心だったことを恥じる。2014年にクリミア半島へロシアが侵攻した時からずっと戦争は続いていたのだと私は今さら気づいたのだ。スーパーに展開されたクリミアコーナーで買い物をし、『クリム』という映画を見ていたにも関わらず、新200ルーブリ札にクリミア半島が印刷されていたにも関わらず、その時まさに侵略戦争が行われていたという事実に私は目を向けなかったのだ。

 私は文章を書かなければならないと思った。しかし、誰に対する文章を?どんな文章を?なぜ書く必要があるのか。私は私の書く文章が個人的なものになるであろうことを知っていた。しかし、私は今書かなければならない。

 私は宣言する。私は全ての戦争に反対することをここに宣言する。

 個人の命は、その命を所有する個人が自由意思によってその生死を決めるべきであると考えるが故に、私は戦争に反対する。何人たりとも、暴力的に命を奪われることは許されない。私は戦争に反対する。死を強制する暴力に反対する。

 個人の思想は、他者の尊厳を損なう行動を伴わない限りにおいて、その思想を所有する個人が自由意思によって、各々の思想を保ち成長させるべきであると考えるが故に私は戦争に反対する。兵器の使用のみが戦争の条件ではない。私は思想を強制する枠組みの暴力的な行使をも戦争の一種であると考える。その意味において私は全ての戦争に反対しよう。

 私は自分の思想を直接的な行動に移す勇気も気概も持ち合わせておらず、結局自己保身を第一に考えている。私はここで「宣言」することしかできない。そんな私を私は恥じる。

 私の宣言は無意味である。社会になんら影響を与えないという点において。そして、今まさに攻撃を受けている人々を救うことができないという点において。しかし無意味であるからと言って、自ら声を上げることすらせず、行動する他人を嘲笑するようなシニシズムを私はもはや肯ずることができないのだ。

 安全地帯からの卑怯な文章。その端々から溢れる自己陶酔。それを自覚した上で、なお私は声を上げよう。「ここに戦争に反対する人間が一人いるぞ」と。

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