私と「悲しき玩具」
きみたちのなかには、今日のような極度にいらだたしい世界情勢のもとで、文学なんか研究するのは、ましてや構造だの文体だのを研究するのは、精力の浪費だと思えるひとがいるかもしれない。
(『ナボコフの文学講義 下』[i]、395頁)
はるか遠くで続く、私にとって最もリアルな戦争が、じりじりと胸を苛んでいる。何かに没頭していても、その鈍い痛みがふと戦争のことを思い出させる。そして私は携帯端末を手に取り、情報を集め始める。
日本の、ウクライナの、ロシアのニュースサイトを巡る。空いた時間にはYoutubeでロシアの独立系のメディアが作る番組を見る。(この文章を書いていた時、Дождьの放送が終了。これ以降放送活動を休止するとのことでした。)
非日常を感じながら日常を過ごしている私であるが、小説を読むことはやめられない。身体が物語を求め、物語を表現する言葉を求め、自分も言葉を紡ぎたくなる。
私は物語に救いを求めているのだろうか。「言葉の力」なるものを信じているのだろうか。感動的な言葉の羅列が人の争いを終わらせるそんな未来の可能性を求めているのだろうか。特別な文章が無力感に苛まれる私の心を幾分か軽くしてくれることを期待しているのだろうか。
「否」と私は答えよう。小説は私にとって麻薬なのだ。それ自体の存在が私を魅了する。崩壊の音を感じながらも私は物語を求め続ける。光る言葉の結合を探し続ける。
遠くて近い戦争に心を痛めながらも、私は私自身の欲望に従って小説を読み続ける。そんな自分自身を時々恥ずかしく思う。
『しししし』という雑誌を買った。「双子のライオン堂」さんという本屋発の雑誌だそうだ。私が購入した第4号は「中原中也」の特集をしていた。その中に詩人長尾早苗さんの「わたしと「ダダさん」」[ii]という文章があり、次のような文があった。
中也は啄木の『悲しき玩具』を愛読していましたし、その「悲しき玩具」とはなんなのか、非常に考えを広げていたと思われます。(中略)わたしも今詩作をしているとき、何かと壁にぶつかったらこの作品を読んでいます。そしてわたしは「悲しき玩具」とはもしかしたら「芸術そのもの」なのかもしれないと思うようになりました。
(「わたしと「ダダさん」」、42頁。)
『悲しき玩具』は1912年に出版された石川啄木の歌集だ。啄木といえば「はたらけどはたらけど」で始まる歌が有名だろうか。
芸術そのものこそ「玩具」だったのではないかという指摘を読んだ時に私が思い出したのはナボコフであった。ナボコフは文学作品とは世間一般の人が使用する意味で「役に立つ」ものではないというスタンスで文学について語る。彼は文学作品を「贅沢品」や「素晴らしい玩具」と表現した。
「玩具」とは役に立たないものである。それが実用的な面で効力を発揮するものならばそれは「玩具」ではなく「道具」だ。そして、「玩具」は役に立たないからこそ、興味関心の無い人からすると、つまらない、不必要ながらくたに見えるものなのである。
そんな「玩具」に心を捕らわれ、どうしても手放せなくなってしまう人がいる。他人はそのような人種の人々を「芸術家」と呼ぶ。「わたしと「ダダさん」」には次のような文が続く。
他人からは「玩具」と見えるような芸術というものが、詩人の心をとらえてやまず、しかしそれのせいで稼いでゆけない、だからこそ「ぢっと手を見る」ようになってしまうのではないかと考察をしています。しかし、いくら「他人」から見て「玩具」、おもちゃのようなものであったとしても、芸術家はそれを本気で、命がけでつくり続けなければならないと思っています。(中略)わたしたちは常にその「玩具」にさいなまれながら「玩具」のために生きているのです。
(「わたしと「ダダさん」」、42頁。)
「玩具」に心を捕らわれ生きる人は芸術家だけであろうか。私は、芸術を受容する人間もやはり、「玩具」の魔力に魅せられた囚人なのではないかと思うのだ。ナボコフはその「文学講義」で、読書行為によって、作家が感じていたであろう創作の喜びを感じられる読者を理想としていた。ある種の読者が身体の内奥から込み上げる衝動に突き動かされるように読書行為を続けるのは、そこに創作の喜びを、(ナボコフ的な言い方をさらにするならば「霊感」を)感じているからに他ならない。
「玩具」のもたらす喜びは私たちをここではないどこかまで連れていってくれるものだ。ここで私が言わんとするのは、例えばファンタジー小説を読んでいる人間が、そのファンタジー世界にあたかも入り込んでいるかのように感じる、物語世界への自己投影のことではない。そうではなく、感覚の拡張とも言うべき、あの快楽のことなのだ。
文学作品とは言葉によって創られる芸術作品である。読書行為によって私たちはその言葉たちとその結びつきを咀嚼し取り込んでいく。言葉に対する知覚は、日常生活で使用している範囲を超えていく。テキストは絶えず私たちの知覚を刺激し、強制的に新しい認知の感覚を開かせる。思いもよらなかった言葉と言葉の繋がり、その音と意味は調和のとれた和音となり、文という旋律を奏でる。その連なりが文章となり、全体を形作っていく。輝く言葉や文が過去の旋律を呼び起こし、文章を重奏化させていく。魔法のようなイメージの連鎖。開かれた感覚は、別の知覚を侵犯し、色や香りや音すら私たちは感じるようになる。そのイメージと感覚が織りなす世界に身を浸す快楽、その快楽こそがある種の人々を捕らえてやまないものなのだ。
一つ言っておくと、私はここで開き直りをする気はない。捕らわれているからしょうがないと言う話ではない。世界情勢がどれだけ不安定であろうと、自分の生きる世界がどれだけ残酷であろうと、私は物語に魅せられているのだから仕方がないではないかと、開き直る気は到底ないのだ。どれだけ外の世界が騒々しくても、ある種の創作物に没頭せずにはいられない自分自身を客観的に見る目があるからこそ、「悲しき玩具」というような言葉は生まれるのではないだろうか。
私は私が今存在している世界以外で生きることはできない。人間である以上、ある時代ある場所の社会の中で生きていかなければならない。社会は私の意志とは関係なく動いていき、私に様々な行動を強制する。時には深い悲しみを呼び起こし、内省を促すような出来事も起こるこの世界。生活の為に自己を切り売りしなければならないこの世界。しかし時にはそんな世界を拒絶し、象牙の塔に籠ることを許して欲しい。(誰に許しを乞うているのか。)私は今日も「玩具」に魅せられ、悲しき快楽を味わっている。
[i] V.ナボコフ著、野島秀勝訳『ナボコフの文学講義 下』、河出書房、2013年
[ii] 長尾早苗「わたしと「ダダさん」」、『ししししvol.4 中原中也』、双子のライオン堂出版部、2021年、38-43頁