福永武彦とジッド『狭き門』
5月11日~13日
福永武彦(1918-1979)は私の好きな作家の一人で、特に『死の島』が好きです。しかし、いかんせん現代の私たちが作品を読もうとすると、ハードルの高い作家ではありました。それは、彼の作品で比較的手に入りやすいのが新潮文庫で出ている『忘却の河』『草の花』の2択だったからです。しかし、今回ちょっと調べてみたところ講談社文芸文庫が『死の島』の電子版を出していることを知りました。ありがとう。電子書籍。これで気兼ねなく他人にお勧めできるというものです。(新潮社も出していました。)
さて、なぜ福永武彦の話をし始めたのかと言うと『二十世紀小説論』[i]という本を読み始めたからです。これは福永が学習院大学のフランス文学科で行ったフランス文学の講義用に書かれた自筆の講義草案ノートの内容をまとめたものです。
「モームとハマトンはもう読み終わったのだろうか」と、疑問に思われた方もいるかもしれません。安心してください。まだ読み終わっていません。私は、何冊もの本を興味の赴くまま、同時に読み進めてしまう癖があるのでした。皆さんは1冊を読み始めたらその1冊が終わるまで次の本を読み始めないタイプでしょうか、それとも同時並行タイプでしょうか。これは私の勝手な感覚なのですが、読書好きな人は同時並行で読み進めていくタイプの人が多いような気がします。世の中に読みたい本が多すぎて、あれやこれやと自分の読書ペースを考えずに手をつけてしまう。結果的に、「今読んでいる本は、あれとこれと…うーん、10冊くらいありますね」という具合に、膨大な数へ膨れ上がっていることがよくあります。
閑話休題。
フランス文学における文学的20世紀が1913年に始まったと定義するところから始まる『二十世紀小説論』は、特にアンドレ・ジッド(1869-1951、本書内では「アンドレ・ジイド」と表記)、マルセル・プルースト(1871-1922)両者の作家論にそれぞれ1章ずつを与え、その後フランス20世紀文学における小説技法や特徴を論じているようです。ようですと書いたのは私がまだこの本を読み始めたばかりで、本書の流れは目次から読み取っているからです。
私は小説家が書く文学論を読むのがとても好きです。それは、この世で最も小説に対して真摯に向き合っている人種にしか書けない情熱が文章から伝わってくるからであり、何が小説の面白さを生み出しているのかに対する視点が卓越しているからです。『二十世紀小説論』もまさに、小説を創作する者としての視点から作品を分析する部分を私はとても面白く読んでいます。
例えばジッドの『狭き門』を分析する部分では、この作品を読者に「不幸な恋愛物語」として読むように誘惑しながらも、根柢のところでは「愛は人と神の間にではなく、人と人との間に生まれなければならない」という主題を表現するために、意識的な文体と構成がいかに巧みに使用されているかを説明しています。そして、作品全体のリアリティを強固にするための仕組みを以下の様に述べています。
『狭き門』の小説的技術は、アリサがジェロームから離れる宗教的原因を、小説として具象化していく経路の巧みさ、その緻密な計算に懸っている。作者は第一にジュリエットの主人公に寄せる愛を目立たずに(主人公にわからないように、しかし読者には分かる)描いた。第二にアベルという劇作家志望の三枚目(中略)を使って、ジュリエットの気持ちをより正確に出す。第三にジュリエットの結婚後、アリサの宗教への傾斜を、二人の出会いの描写とアリサの日記とで立体的に見せる。第四に、この主人公ではアリサの精神的純粋性に比して釣合わないのではないかという予感を与えている。つまりこの二人の恋人が上手くやって行けないだろうと読者が思うのは、アリサのプロテスタンティズムだけでは抽象的にすぎるが、ジェロームのスノビズムがあるので充分納得の行く仕組みになっている。[ii]
『二十世紀文学論』、35-36頁
少し引用が長くなってしまいましたが、こうした文章を読むと、小説が言語によって組み立てられた精密な芸術作品であることがわかってきます。そしてそれをここまで簡潔に文章化する作家の文章力たるや。私もいつか、このような文章を書いてみたいものです。
『狭き門』は読んだことがあるのですが、いかんせん遠い昔のことなので、殆ど内容を忘れてしまいました。最後のシーンで主人公とジュリエットが薄暗い部屋に二人椅子に座りながらたそがれていた記憶がありますが、うろ覚えです。しかし、こんな魅力的に作品を分析した文章を読むと小説自体も読んでみたくなってしまいます。次に本屋に行った時、『狭き門』の小説があると買ってしまうんだろうな。こうして、同時並行で読んでいく本が増えていくのでした。
[i] 福永武彦『二十世紀文学論』、岩波書店、1984年
[ii] 同上、35-36頁