煙草と自己啓発と
5月14日~19日
ハマトンの『知的生活』[i]を読み始めましたという文章を書いてから1週間以上たちChapter1の2枚目の手紙まで読んだ私です。牛の歩みのようにゆっくり読んでいます。今までは、1冊マルっと読まないと文章を書いてはいけないような気になっていた私ですが、それだと次の文章まで時間がかかりすぎるし、どうせ気負って書かないので、読んだところまで書いて行こうと思います。
さて、『知的生活』の新訳版ですが、以前書いたように、私が個人的に一番面白いと思う部分が削られている疑惑があったので、英語版も同時並行で読んでいます。時々わからない単語を調べたり、調べなかったりしながら読んでいると、すぐに時間が過ぎてしまいます。自分が日本語を読めるようになりたての頃は、こんなスピードだったのかしら?というようなゆっくりした速度で、本を読むのもまた、乙なものです。
『知的生活』は芸術家である作者が、知的生活を人々が送るために必要な考え方や習慣について、手紙形式で記している書物です。日本語版はどうやら読みやすさを勘案して、手紙の順番も変えているようです。英語版は1,2番目の手紙には知的労働が身体に与える影響についての考察が、3番目の手紙には知的生活を支える食事と嗜好品についてが書いてあります。一方、日本語版だとこの3番目が最初に、そのあと1,2番目を統合した形の手紙が収められているようです。
日本語版の本全体では日本のわがままな読者が容易く理解できるように、手紙の題名と副題も内容が一目でわかるものが付いており、原文にはない節ごとの題名もついています。つまり、自己啓発本として整備され、めちゃくちゃわかりやすい本になっています。いたれりつくせりです。
現代のスマートな価値観に合わせて毒気も抜かれているようです。例えば英語版ではワインやビールの効用を述べた手紙に、煙草の効用も書いてあったのですが、日本語版では煙草に関する部分はカットされてしまっています。しかし、最後まで読み通したわけではないので、もしかしたら後半に現代の価値観にそぐわない部分だけをまとめた章がある可能性も捨てきれません。しかし、あまり期待しないでおきましょう。
煙草に対する人々の視線は年を追うごとに厳しいものになっていっているので、現代日本で出版するには該当の部分の翻訳を加えて出すのは難しかったのかもしれません。もしかしたら、喫煙を勧めるような文章は翻訳してはいけないという不文律が出版界にできているのかもしれません。自己啓発本を読む量は少ないですが、最近出版された本で「煙草は想像力を刺激するので、少量たしなむ程度であれば仕事が効率化します」みたいな主張の本を見たことがないのは確かです。
私も喫煙を推奨するわけではないですが、『知的生活』が書かれた時代の雰囲気を感じるために、少し該当箇所を見てみましょう。ハマトンは、煙草は刺激剤として作用する一方で麻薬のように作用する二面性があり、多量の服用は危険だと述べています。「過度の喫煙者は意思決定が薄弱になり、実際の労働において努力するよりも、仕事について話すことを好むようになるように見えている」[ii]と喫煙のよろしくない面に言及した上で、以下の様に述べています。
Most of the really brilliant conversations that I have listened to have been accompanied by clouds of tobacco-smoke; and a great deal of the best literary composition that is produced by contemporary authors is wrought by men who are actually smoking whilst they work.[iii]
私が聞いた本当に素晴らしい会話の殆どは紫煙の雲から生まれた。そして現代作家によって生み出された最高の文学作品の多くが、彼らの創作中に実際、煙草を吸いながら作られたのである。(筆者訳)
The Intellectual Life. Kindle版.19p
訳が拙いのはお許しを。それはさておき、時代を感じる文章ですね。煙草というと悪いイメージが先行しがちな現代ですが(創作では少し悪ぶった印象をキャラクターに付与する際の小物として形式化されたきらいがあります)、ハマトンの生きた時代には思考を刺激するアイテムとして常用されていたのでしょう。昔ながらの喫茶店へ行くと、店全体に煙草の煙が渦巻いていることがありますが、それと同じような雰囲気の中で、芸術家たちが喧々諤々の議論を戦わせながら、作品を生み出していた時代があったことを伺える文章です。
ゆっくりと揺蕩いながら消えていく煙には何かしら神秘的な趣があります。これは私の個人的な考えなのですが、創作をしている時の頭の中はあんな風になっているのではないでしょうか。揺蕩う抽象的な思考。それが何か、ふとした瞬間に、象徴的な形を作る。ああ、私が表出したいと思っていたイメージはこれだったのか、言葉に記したいと思っていたイメージはこれだったのか、と、その一瞬の形にインスピレーションを得る。
煙の形の解釈は人それぞれなので、占いと一緒です。だから論理では説明ができない神秘の領域です。しかし、創作をしているその瞬間、その場所で、インスピレーションを得られる形が眼前に現れた(と思った)ことが重要で、その事象と感覚を人は「霊感」と呼ぶのかもしれません。
ハマトンも煙草を薫らせながらこの本を書いたのだろうか、などと勝手に想像をします。そんな想像をしながらゆっくりと本を読み進める時間はとても贅沢だな、と考えながら本のページをめくっています。
追記
これは蛇足なのですが、kindleで読んでいるので、厳密に言うとページはめくらずにスライドしています。
[i] P.G.ハマトン著、渡部昇一・下谷和幸訳『新版ハマトンの知的生活』(三笠書房Kindle版、2022年)
[ii] I have observed in excessive smokers a decided weakening of the will, and a preference for talking about work to the effort of actual labor.
P.G.HamertonThe Intellectual Life. Kindle版. 20p
[iii] 同上書19p