宣言1つ
5月7日
行仰しい題名だが、ただの個人的な宣言である。
澁澤龍彦の『偏愛的作家論』(福武書店、1986年)に次のような文がある。
わたしは一部の友人から記憶魔と呼ばれているほど、愛読した書物のなかの片言隻句を頭のなかに刻みこんでいる性質の人間なので、初期の三島氏の小説の中に(評論や短文は別として)サドの名がちらりと引用されている箇所を、ただちに指摘することができる。
(『偏愛的作家論』、100頁)
「三島氏」は三島由紀夫のことであり、引用部は彼がサドから受けた影響についての文章の一部なのであるが、三島由紀夫とサドはいったん隅に置いておこう。なぜならこの文を読んだ時に私が感銘を受けたのは、「愛読した書物のなかの片言隻句」を覚えているという澁澤龍彦の記憶力であったからだ。
作家であり文学者であったウラジーミル・ナボコフは良い読者の条件の1つに優れた記憶力を挙げている。文学作品が言葉という素材で緻密に組み上げられた芸術作品である以上、無駄な部分など作品内には存在せず、読者は読み終えた文章と小説全体の有機的な繋がりを常に意識しながら作品と対峙しなければならない。ある文章や場面が小説全体の中で効果的な働きをしていることを理解するためには、その「ある文章や場面」を記憶している必要があるのである。
さて、私は小説を読むのは好きだが愛読書の片言隻句まで頭に刻み込まれているかどうかと言われると、「それはない」と断言することができる。愛読の深度も異なるのであろうが、私の記憶力があまりよくないというのもあると思う。私の記憶力がよくない理由は、才能云々を別にすれば、大きく分けて2つあるように考えている。それは自己の行動的な面と、環境的な面である。
先に環境の面から述べると、スマホの影響が大きいと思うのだ。わからないことがあればすぐに調べることができる。手軽に情報を参照できるという環境では、知識を記憶しておくことの重要性は低くなる。身もふたもない言い方をしてしまえば「すぐに調べられるのに情報を覚えておく必要がありますか?」ということだ。普段の生活で脳みそがそういった環境に慣れてしまっているので、そもそも物事を記憶するための脳の回路が衰えてしまっているのではないだろうか。
しかし、一方で私自身が何か記憶を定着させるための行動をしていないというのもあると思う。簡単に言うとアウトプットの量が恐ろしく少ないのである。
何かを消費することに慣れてしまっているせいか、私の読書はほぼ読んだら読みっぱなしである。人に感想を言うこともあるが、文章化してかっちりとした形で残しておくことはほぼない。結局読んだが内容を覚えていない(言語化できない)本が積みあがっていくのである。
上述のことは常々感じていることなので、年に何度も文章化をしようと心に決めるのだが、なんやかんやで流れてしまうのである。しかし、今日は重い腰と腕をやっと動かし、筆を執ることができたので、この文章が生まれることになった次第である。
この文章を要約すると、澁澤龍彦の記憶力に感銘を受け、ナボコフの言葉を思い出し、自分の記憶力の無さに思いを馳せ、それを何とかするためにこれから定期的に文章を書いていきたいと思っているということである。
あまりしっかりしたものを書こうとすると続かないので、緩い読書日記のようなものが書ければいいなと思っている。