モームとハマトンと
5月8日~5月10日
サマセット・モーム(William Somerset Maugham,1874 – 1965)の『人間の絆(Of human bondage)』を読み始めました。モームは『月と6ペンス』『お菓子とビール』を読んだことがあり、特に『お菓子とビール』はお気に入りの作品です。
留守をしている時に電話があり、ご帰宅後すぐにお電話ください、大事な用件なのでという伝言があった場合、大事なのは先方のことで、こちらにとってではないことが多い。贈りものをするとか、親切な行為をしようという場合だと、人はあまり焦らないものらしい。[i]
『お菓子とビール』(岩波書店、2011年、7頁)
とても素敵な書き出しです。これからどんな「大事な用件」に巻き込まれていくのだろうと、わくわくさせる広がりを秘めた文章。また、人間の行為に対するシニカルな視点に思わず微笑んでしまいます。さて、『人間の絆』は以下のように始まります。
くらい灰色の朝が明けた。雲が重く垂れ下がり、ひどく冷え冷えとして、雪にでもなりそうだった。子供の寝室に、乳母が入って来て、窓のカーテンを開けた。彼女は向いの、玄関のある漆食壁の家をチラと機械的にながめると、そのまま子供のベッドの方へやって来た。[ii]
『人間の絆Ⅰ』(新潮社、1959年、5頁)
今回は普段はあまりやらない読み方でこの小説を読んでいます。それは原文にも一緒に目を通すというものです。Kindleで英語版を購入し、日本語訳と一緒にページをめくっています。原文の最初の文は以下の様に書かれていました。
The day broke gray and dull.[iii]
Of Human Bondage(Unabridged and Illustrated)(Kindle版,2017,p1)
「朝がぶっ壊れてる?」と思ったのですが、breakには「(夜が)明ける」という意味があるそうです。つまり最初の文章は「灰色でどんよりと夜が明けた」という意味になるそうです。
モームの英語は、一つ一つの文が長くなく、読みやすいです。新潮文庫の日本語訳もモームの文章に合わせて、短くわかりやすい文章です。さて、私がなぜ突然原作も読み比べてみようと思ったのかというと次のような経緯があります。最近KindleUnlimitedで無料だったので『新版ハマトンの知的生活』[iv]という本を読み始めました。その前書きに次のような文章があったのです。
このたび三笠書房で装いも新たに出版するにあたり、現代人にはあまり参考にはならない と思われる当時の社会風潮、習慣等を割愛し、再編集してあることをおことわりしておく。[v]
『新版ハマトンの知的生活』Kindleの位置No.37-39
おそらくハマトン[vi]も現代で言うところの自己啓発本のようなものを書こうとしたのでしょう。そして単なる自己啓発本を求めている読者ならば、この心遣いに感謝したと思います。(特に現代人はコスパやタイパを求めているらしいので。)しかし自分は天邪鬼なので「当時の社会風潮、習慣等」の部分こそ最も面白いだろうっ!どうして割愛してしまったんだ!?と思ってしまったのでした。
これは私の個人的な意見ですが、もしも福沢諭吉の『学問のすゝめ』や幸田露伴の『努力論』が同様に「参考にならないところを割愛してわかりやすく再編集しました!」みたいな本になっていたら私は絶対に自分から読むことはないと思うのです。『学問のすゝめ』は福沢諭吉の時代の熱がこもった文章で読むからこそ心に響くのであって、『努力論』は幸田露伴のまさに博覧強記、と感じられる独特な文章だからあんなにも面白いのです。
ただ、ハマトンの原著は英語なので、日本語の本と比較するのは少し話が違うのかもしれません。結局何が言いたいのかと言うと、私はわがままな読者なので原作を忠実に日本語訳した本が読みたい、ということです。芸術家の著作なら尚更。
しかし、そんなに原作に忠実な訳を求める原作厨読者ならば最初から原作を読めばいいじゃない?という声が聞こえてきそうです。まさにその通りです。しかし恥ずかしながら、英語原文を一人で読み通せる気概も英語力もないのでした。しかし、傍らに日本語訳があれば、一緒に眺めるくらいはできるかなと思い、最近読み始めた『知的生活』と『人間の絆』は英語版を一緒にめくっています。
英語はあまり得意ではないけれど、初めの方に引用した文のように、新しい発見があるのは嬉しいです。読了するまでにどれだけ新しい発見があるのでしょうか。時間はかかるかもしれないけれど、丁寧に作品を味わっていこうと思います。
[i] モーム著、行方昭夫訳『お菓子とビール』(岩波書店、2011年、7頁)
[ii] モーム著、中野好夫訳『人間の絆Ⅰ』(新潮社、1959年、5頁)
[iii] Maugham, W. Somerset. Of Human Bondage(Unabridged and Illustrated)(Kindle版,2017,p1)
[iv] P.G.ハマトン著、渡部昇一・下谷和幸訳『新版ハマトンの知的生活』(三笠書房Kindle版、2022年)
[v] 『新版ハマトンの知的生活』Kindleの位置No.37-39
[vi] ウィキペディア情報ですが、P.Gハマトン(Philip Gilbert Hamerton:1834 – 1894)はイギリスの芸術家。『知的生活(The Intellectual Life)』は1873年に出版されました。